もしも1957年に売春防止法が施行されず、赤線地帯が維持され続けていたとしたら?
この世にはタイムマシーンなど存在しないので、“たられば”的な夢想は無意味であることは分かっているのだけど、ソープランドファンとしては、ついつい色々と想像してしまう。
吉原は赤線のままで、ソープランド(トルコ風呂)街にはならず、その結果、ソープランド文化が花開くこともなかったではないか? などと…。
しかしながら、売春防止法が施行された当時には、すでにトルコ風呂が登場していて、“おスペ”(スペシャルサービス。手コキのこと)によって、人気も出てきていたので、その後に自然な成り行きで(客の求めにより)、それ以上のサービスを提供する店が出現していたであろうことは、容易に想像ができる。なので、マッサージサービスだけでない、今日のソープランド的なサービスを提供する店が出てきていても、おかしくはない。
とは言え、1957年に売春防止法が施行されていなければ(当然ながら、その翌年の4月1日から刑事処分が下されるされることもなかったわけで)、やはり、その後の吉原のあり方は、かなり変わっていたことだろう。
ちなみに、ソープランド(トルコ風呂)人気が大きく上昇する契機のひとつになったのは、昭和40年代の半ばに、堀之内で“泡踊り”が考案されたことであったわけだが(考案者は、『川崎城』に在籍していた浜田嬢とされている)、堀之内は、もともとは青線地帯であったので、そういった出来事が起こった確率も、かなり低くなる(浜田嬢が、堀之内で働くこと自体がなかったかもしれないし)。
なので、やはり、1957年に売春防止法が施行されていなければ、その後のソープランド歴史は、大きく変わったことだろう。
いずれにしろ、売春防止法の施行という出来事は、ソープランドファンとしては歓迎すべきことだった、と言えるような気がする。それが、ソープランド(トルコ風呂)文化を生み出す、大きなきっかけになったことは、紛れもない事実であるから!
ちなみに、日本の公娼制度の始まりとしては、『吾妻鏡』に、「1193年(建久4年5月15日)に、遊女屋および遊女を取り締まるために、源頼朝が里見義成に遊女別当を命じた」という旨の記述があるようだが、真偽は不明。
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(https://kotobank.jp/dictionary/nipponica/501/)の「公娼」の解説ページには、「次に日本の公娼制の歴史をみると、鎌倉幕府が遊君別当(ゆうくんべっとう)を置いた旨『吾妻鏡(あづまかがみ)』にあるが、これが公娼として最古の例証にあたろう。室町幕府も傾城(けいせい)局を設けて税を徴収したと伝えられる。しかし、本格的公娼制は豊臣(とよとみ)秀吉による1585年(天正13)の大坂傾城町の認可をもって、確立されたと考えてよかろう。」などと記されている。
20/02/11 10:18:16